バウンダリーをつくる

 グループ活動中に、参加者の身体的安全を作り出すことはファシリテーターの必須スキルです。


 ファシリテーターは、アクティビティを行う上で、身体面・感情面の両面にバウンダリー(範囲)を意識して行います。

 特に身体面のバウンダリー(例:鬼ごっこ系)は、効率よく安全に動き回れるフィールドの大きさを設定(限定)する必要があります。


 アクティビティはPLAY要素が強いので、基本自由さがありますが、その自由さは、実はファシリテーターの安全が確保できる範囲内での自由さなのです。


 範囲を決めることは、そこにいる全員が身体的能力を過剰に意識せずに遊べることにもつながります(範囲のないひたすら走りまくる鬼ごっこだと、足が速い子は楽しめるけど、そうではない子はすぐにつかまってしまい、楽しくない、やりたくないにつながってしまう傾向)。


活動に楽しさを作り出す観点からも、バウンダリーが大事になってきます。

 

身体的安全への配慮が、やがて心理的な配慮へともつながっていきます。

 

#ファシリテーション

#ワークショップ

#ファシリテーター

#アクティビティ

 

内発的動機付けとアイスブレイク

〜intrinsic motivationがないとアイスブレイクは起きない〜

 

ワークショップの参加者は時間もお金もかけて学ぼうという意志のある方々がほとんどです。

そうしたワークショップで学んだことを実際の現場でやってみると..。


あれ?こんなはずじゃ!となることがあります。


その理由が、タイトルにある言葉です。


例えば、学校のクラスメイトは、もともと寄せ集まった人たちです。

自発的に学びたいとワークショップに参加するような人たちのような熱量はみんながみんなありません。

なので、そこまでのモチベーションはむしろないと捉え、その前提のもとにアクティビティを展開する必要があります。

そのような人達でも思わずやりたくなるようなものを。


繰り返し楽しい体験をすることで徐々にマインドシフトがおこるよう、ファシリテーターはアクティビティを設計し、参加者を唆していきます。

#アイスブレイク

#ファシリテーション

#ファシリテーター

#ワークショップ

 

公園での遊びで思うこと。

続、公園での話。

 

公園で遊んでいると、子ども同士気になった相手がいると、少しの牽制(数秒の時もあります笑)を経て、一緒に遊んだりする光景が見られます。

ただし、近くに親がいるとあまりない涙

 

これはコロナ前から感じていることです。

親が、知らない子とは出来るだけかかわらせないよう、「すみません」などの声がけや、「行くよ」と言って、手を引いてその場から去ったりします。


子供がその場で遊びたかったとしても。


人とどう関係性を築いていくか、体験的に学べる貴重な機会を親が奪っているのでは?と思ってしまいます。


その子の思い<遊んでいて何か迷惑をかけてしまい、相手方の親の反応が怖い


という心理がはたらいているのでしょうか。


確かにあり得ることですが、そこは子どもを信じたいですし、お互い様の精神でいきたいなあと思い、我が家はやりたいようにやらせています。


ここしばらく頭の中にある「楽しさって?」にもつながりますが、誰かと一緒に遊ぶ共有体験や、知らない人と遊ぶ未知体験が楽しさだったりするのかな、とも思うので。


コロナが落ち着いてきて、人とのかかわりが増えていく今後、いろんな人と遊べる時間、空間、関係がそこかしこで見られるといいな、と思います。

 

#ファシリテーション 

#子育て

「危ないよ」という言葉掛け

 子どもと色々な公園にいきます。

遊んでいると、職業柄?親と子どもの関わりが気になってしまいます。


特によく聞くキーワードが「危ないよ」。


子どもは進んで危ない(と大人が思ってしまうような)遊びをしちゃうもんですが、「危ないよ」と言って、親が先回りして行動を制限している場面をよく目にします。

 

長期的に見たらその声がけをしてしまうことで、危ないを知らないもっと危ない状況になるかも。


大人は、見守りと最低限のサポートに徹し、子供が自由に伸び伸びと遊ぶ姿が見たいなあ、と思います。

(危ないよ、とだけ言って、スマホ画面に夢中になり、見守り・サポートが...という状態も目にします)


前回の投稿で楽しさとは?について投稿しましたが、楽しさは未知に対するリスクテイクだな、と思います。


出来るかどうか分からない、次に何が起こるか予想できないなことに対する楽しさだったりするのかなと。


大人の判断でそうした場面、チャンスを摘み取らないようにしたいなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

楽しさって?

ついこの間、学校で「なかよし広場」がありました。

上級生がその時間に何をやるかを考え、下級生と遊ぶ児童会の活動です。


選ばれた活動は、爆弾ゲーム。

基本ルールは以下の通り。

①円座で座る

②音楽に合わせてボールを回す

③音楽が止まった時にボールを持っていた人がアウト!


で、3回アウトになった人はみんなの前に出て罰ゲームをするというルールでした。


当然、罰ゲームはやりたくない人が多いので、前に出ても、なかなかやろうとしませんでした。

それを一部の人が煽り始め、微妙な雰囲気になり、やらざるをえない、盛り上がらざるを得ないような、なんともな環境になっていました。

 


児童会の活動なので、そこでは口出しはせず、後から罰ゲームを受けた人達のフォローをしたのですが...。

 


楽しさって何だろう?と考えた出来事でした。

 


そしてこの流れ、昭和から変わっていない!笑


ともすると、こうしたレクは、提供する側の配慮が足りず、誰しもが居心地よくいられない環境を容易につくってしまいます。

 


その要因はいくつかあると思いますが、例えば、

○ルールが勝ち負けに支配されている

○罰ゲームがある

○一度負けると復活はなく後は傍観者

などがあるでしょうか。

 


そこにいる誰しもが安心安全に参加し、誰にでもチャンスが生まれたり、参加度が下がらない(例えば、じゃんけん列車はそのままのルールでやると、一度負けたら最後、後はじゃんけんの機会がなくなります。それでつまらなくなってしまい、走り出して列車を切り離すことに楽しさを見出したりしているのをよく見ます。そしてそれを注意される残念な結果に...)ような設定の工夫を考える必要があるし、それを子どもが体験することが大事です。基本、体験したものしか提供できないと私は思っています。

自分が体験していないものを提供する怖さがありますから。

 

これからの時期、お楽しみ会などを企画・実施すると思いますが、最後の思い出が楽しい思い出で終われるよう、お節介ですが思ったことを久しぶりに書いてみました。

 

 

 

ファシリテーターはアコーディオン。

ファシリテーターとは。どんなイメージ?

 

中立性、受容的などが一般的なイメージでしょうか。

 

しかし、ある時はカウンセラー、ある時はメンター、ある時はティーチャーなど、幅広い役割をその時の状況や目的に合わせていきつ戻りつつするのがファシリテーターの意味だと学びました。

 

楽器のアコーディオンのように。

 

ファシリテーターだから、ではなく普段から対象者の目的や状況に合わせて行きつ戻りつつを繰り返す自分でありたいな、と思います。

#ファシリテーター

 

 

 

 

 

みる

みる→看る、視る、見る、観る、診る、瞰る

 

アクティビティを使ったWSを進めるファシリテーター(だけじゃないですよね、きっと)に大切なものは何より「みる」ことだと学んできました。

 

では、アクティビティを通してみたいものとは?

(一例)

◯エラーに対する反応をみたい

・エラーに寛容か、過剰な反応はあるか。気軽に笑い合える雰囲気はあるかなど。

・積み重なったものからの否定的な反応もあるので、それを踏まえたうえで、どうそれをブレイク(リフレーミング)していくか。

※アクティビティを使うのは、エラーが起きやすい環境を意図的につくりやすいから。

 

◯関係性やコミュニケーションをみたい

→誰が誰にかかわろうとしているか。(その逆も)

コミュニケーションスタイルは。情報の開示(量や深さなど)は。

 

あえてアクティビティを使う理由は上記にあげたようなことが起こりやすい、見えやすいから。

 

ただ漠然と「みる」ではなく、いくつかの視点を持ってアクティビティ中のグループの様子を観察し、「では、次何したらいいかな?」につなげていきます。

#ファシリテーション

#ファシリテーター